新年明けましておめでとうございます。このたび、「私とゴムの履歴書」として、㈱右川ゴム製造所の歴史に触れながら、私がゴム産業にかかわってきた記憶を辿っていくことになりました。
黎明期のことは、創業100周年記念史『あゆみ』(2009年発行)に収載した、創業者・右川慶治の講演記録に沿って話を進めたいと思います。それによると、明治30年ころのゴム工業は「よそのことはわからない」と書き出しがあるほど、お互いに秘密主義だったようなので、その点はご了承ください。
日本のゴム産業の夜明け
記録によれば、明治19年に三田土護謨が、浅草でゴム事業を始めたようです。日清戦争(明治27~28年)で使われた軍事用弾薬の箱の周りに巻くゴムや、船の防水用ゴムを作っていた他、海水浴の水着も作っていたと聞いています。また、芝で軽気球を研究していた山田猪三郎氏も、海水着を製造していたようです。
次に、明治護謨会社が品川に創業し、英国人を雇って事業を拡大しました。その他、吉田静吉氏によって浅草に日本護謨会社が創られ、飛行機のゴムを製造していました。
ある時、明治護謨、日本護謨、三田土護謨、そして我が右川護謨という同業者が、懇親のための集まりを持ちました。しかし、どの会社も技術上の打ち明け話をせず、秘密が守られた会であったそうです。
その頃、新橋あたりに敷設される鉄道の入札があり、三田土護謨と日本護謨、右川護謨の競争入札となり、「ドロパー」とい