【コラム連載シリーズ】私とゴムの履歴書 創業から戦後まで【3】~二代目・右川洪輔の時代~ 右川清夫氏

2016年04月16日

ゴムタイムス社

【コラム連載シリーズ】私とゴムの履歴書 創業から終戦まで

 今回から、㈱右川ゴム製造所の歴史は、二代目で私の父・右川洪輔の時代に入ります。

 父・洪輔が入社

 創業者の右川慶治は4男1女に恵まれました。長男・康夫は医者になり、次男・謙二と三男・鼎造が右川ゴムを継ぎましたが、四男は夭折。五男であった洪輔は、日本冷凍㈱に勤務していました。

 当時、日本の企業が中国進出する勢いに乗じて、右川ゴムも上海に進出。日本ゴム工業史によると、大正12年に資本金25万円で慶徳橡皮工廠をスタートさせています。三男・鼎造が経営を、次男・謙二が営業を担当し、昭和を迎えた頃には第1工場でゴムまり、第2工場で靴底、第3工場がコンドームの生産をしていたそうです。

 私の父・洪輔が、勤めていた日本冷凍を辞めて右川ゴムに入社したのは、昭和7年のこと。昭和10年に私が生まれると、洪輔は「お前がこの工場の跡継ぎだぞ」とばかりに、生まれたばかりの私を抱いて隅田の工場内を歩き回っていたと、母から聞いたことがあります。

 戦前の右川ゴム

 その頃の右川ゴムの主体はゴムまりの製造で、30人の社員が作り出す量は、東京では匹敵する会社がないほどでした。他社とは違う独自の機械や開発が目を引きました。

 それまでは、未加硫のゴムシートをヒョウタン型に切り抜いて貼り合わせていた成型方法でしたが、大正年間から新製法の開発を進め、ゴム押し出し機の口金を改造し、お椀型の未加硫成型ゴムをバキューム型で張り合わせる「貼りプレス式」製法を考案。定着させました。また、押し出し機のスクリューやロールの冷却装置は、洪輔が日本冷凍時代に培ったクーリング方式の応用で、他所にない差別化した工夫・研究をしていたようです。

 製造したゴムまりの7割は、中国、インド、オーストラリア、南洋諸島、南米、北米にまで

全文:約1930文字

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