前回に続き、戦争中の様子とともに、二代目・洪輔時代の㈱右川ゴム製造所の歴史をたどります。
なお、右川ゴムは東京大空襲によって記録を全て失っているため、前回と同様、ご縁のある方々の著作等を引用しながら、戦争前後のゴム産業の様子をひも解いていきます。
ドイツを手本に
工業製品の発展に戦争が寄与してきた歴史は、動かしがたい事実として存在します。父・洪輔と親交があり、東京工業大学名誉教授を務めた神原周先生の著作『高分子物語』(永井芳男氏との共著 中公新書)によれば、人工的なゴム、つまり合成ゴムは、第一次大戦中に非常体制下のドイツで出現しています。
外国の最新技術に関する情報に暗かった当時、アメリカとの関係が悪化する中で、日本は軍事同盟を結んでいたドイツに技術供与を受ける他はありませんでした。昭和18年のある日、一隻のUボート(ドイツ軍の潜水艦)が、ひそかに呉の軍港に入港しました。「せまい潜水艦のなかに、無理に押し込んだ積荷は、すべて当時のヨーロッパで入手しうる技術水準のサンプルや、貴重な技術資料、設計図面などだったのである。(中略)こうして運ばれて来たもののなかに、射出成型機と、約一トンのポリスチレンが含まれていた」(『高分子物語』永井芳男・神原周著(中公新書)より)
ドイツは、すでに「ブナS(スチレン・ブタジエンゴム)」「ブナN(ニトリルゴム)」という2つのタイプの合成ゴム